縄文のビーナスを観に行ってきました。

先月、上野の国立博物館で開催されていた「土偶展」に行ってきました。私は土偶や埴輪の素朴な表情が好きで、今回はそのなかでも国宝が3つそろって見られる、ということで嬉々として出かけました。土偶はそのほとんどが女性をあらわしたもので、特に妊娠した女性や子供を抱いた女性など、生命とのかかわりを形にしたものが多く、素朴な表情でありながら、そこに込められた「子孫を残す」といった個を超えて生命をつなぐ、といった根源的な思いが伝わってきます。「縄文のビーナス」は、妊娠した女性をあらわしているといわれます。手は簡略化され、ふくよかな下半身が女性を象徴するやわらかい曲線で強調され、女性(母性)に求められた役割や神秘性への敬意を感じます。出来上がった形は、恐らく縄文時代にも現実には存在しないような体型となっていますが、思い切りよく強調された下半身の表現、また土偶全体を構成する曲線の反復、背中が大きく削り取られて曲線と曲面で作られたお尻のラインなど、限られた材料と道具でこのような表現を作りあげる相当な造形センスを感じます。これが紀元前145世紀〜10世紀(ウィキペディアによる)という「ミロのビーナス」よりはるか昔に作られていたのだからすごいことです。おまけに、ずっと後の時代の水墨画、浮世絵、枯山水、能面などといった日本的な美術に共通する抽象的な感性の原点をみるような思いがしました。
縄文土器土偶は、その形や抽象的な表現などから「現代アート」のようだともよく言われます。確かに、その造形は独特で、人を惹き付ける魅力にあふれています。しかしこれらは「アート」として作られたわけではなく、あくまでも生活の一部として日常的な行為によって作られたものです。縄文人みんなにこのような造形センスがあったかどうかは謎ですが、現代のようなものや手法にあふれた時代であれば、縄文人はどのようなものを作りえたのかと考えると、現代人であるわれわれはもっと素直に「作る」という行為と対峙しなくてはならないなあ、と反省しました。