きみは「番匠谷尭二」を知っているか?

ダマスカス旧市街の路地

先日、「番匠谷尭二」という建築家の生涯についてお話を伺う機会がありました。「番匠谷尭二」という建築家に関しては、大学の大先輩でありながら、その海外での活動に関してはほとんど知識がありませんでした。もう15年程前になりますが、ダマスカスを訪れた際に都市計画局かどこかで「Banshoya」とクレジットの入った都市計画地図が壁一面に貼られてあったのを見せていただいき、こんなに日本から離れた地で、それも都市計画という国家的水準の計画に携わった日本人がいるのだ、と驚いたことを覚えている程度でした。シリアの二大都市であるダマスカス、アレッポの現行都市計画の礎をつくった建築家で、パリ在住の松原康介さんが現在その功績を調査されておりますが、なかなか謎の多い人物ということで、今後の調査結果が大いに期待されるところです。
 その調査結果を抜粋します。「番匠谷尭二」は、昭和28年に東京工業大学建築学科清家清研究室を卒業し(篠原一男、林昌二らと同級生)、その後渡仏し、エコール・デ・ボザールで勉強し、アニング(Hanning)という建築家と共にアルジェの共生住宅などの計画に携わります。その後ミシェル・エコシャール(M.Ecochard)と共にシリアの首都であるダマスカス(1968)や第二の都市アレッポ(1975)の都市計画を策定しました。シリアはフランスの統治下にあったため、近代都市計画はフランス主導のもとで進められていました。しかしそれはダマスカスやアレッポといった千年以上の蓄積のある重層的な都市構造をもつ旧市街の保全と近代都市計画の理念が交錯するものであり、近代街路の線引きは交通、環境悪化、社会の分断といった様々な問題を生じさせるものでありました。しかし前任者による第一次の都市計画でアレッポの旧市街を貫いていた街路は、1975年に番匠谷氏により策定された都市計画では、必要最低限の街路計画に変更されており、そこには番匠谷氏の旧市街保全に対する意志が読み取れます。近代化の理念が大きく世界を席巻していた時代に保全の理念を踏まえた計画案を日本人建築家が実行していたのです。また、1960年代頃中東で丹下健三はいくつもの計画を実施していますが、その際にも番匠谷氏は大きな役割を果たしていたということですが、そのあたりに関してはまだまだ未知の部分が多く、今後の調査が期待されるところであります。
私が調査しているマカオに絡めてちょこっと話をすると、マカオでは1920年代に中心地区を貫く街路(亞美打利庇廬大馬路/Avenida de Almeida Ribeiro、通称新馬路)が半島の東西にある南湾と内湾側を結ぶという効率偏重の計画が実施され、半島の南北は物理的にも文化的にも分断されました。計画当初は十分な広さがあった街路ですが、片側1車線しかないこの街路は今では常に交通渋滞、騒音、排気ガスといった問題を引き起こしています。現在は半島周囲には幹線となる街路が建設され、歩いても20分程度のこの街路は、もはや1920年代の計画理念は失していると思われてなりません。この街路が敷かれる際にどのような議論が計画者の間で行われたのか今となってはなかなか知ることも難しいですが、現在のマカオはこの新馬路の両側に大規模な埋め立て地が建設され、そこはいわずと知れたカジノ街となっています。現時点ではカジノは旧市街内にはなく、暗黙の住み分けがなされていますが、カジノ業界は新馬路を起点として旧市街側へ向かいカジノ建設を日夜目論んでいます。既にグランド・リスボア(老舗カジノ「リスボア」の新館)が建設され、その高層のホテル棟は旧市街の中心であるセナド広場からの我々の視界に侵入し、いわゆる文化的景観を破壊しています。たった1本の街路をきっかけとして都市構造が大きく影響をうけ、社会や文化が直面する衝撃は計り知れないのであり、今回の発表を聞きながら、マカオの状況を改めて考えさせていただくこととなりました。
ただ、その一方で、貴重な資源や産業のないマカオ経済はカジノからの収入に頼らざるを得ない、旧市街の中の古い住宅より埋立地に建設された設備の完備された集合住宅に住みたい人が多数いるというような、複合的なジレンマを抱えていることも事実です。目下、このような状況に対し、画期的な政策がとられているわけでもありません(というか圧倒的なカジノ建設のスピードには太刀打ちできない、という悲劇的状況)。いっそのことここまできたら旧市街VSカジノといったありがちな対立関係ではなく、世界遺産の教会や伝統的な住宅の中でカジノができるようなハイブッリドさを許容した(それこそ世界にはどこにもない気がします)、とんでもない観光地として生き抜くのも面白いかもしれません。(MK)*[建築・都市]